3年生の卒業シーズンになり、部報を作る季節が巡ってきました。
今年も白幡の武南記録更新をはじめ、延べ15名、リレーで2つと多くの生徒が歴代10傑入りを果たしました。
その中でも久しぶりに400mHで定常が歴代7位の記録をマークし10傑入りしました。

武南高校の400mHと言えば何と言っても山崎一彦(25期)先輩の存在があまりにも大きいです。

現在、日本陸連強化副委員長、強化育成部長、そして2020東京オリンピック特別対策プロジェクトリーダーを務めており、その仕事ぶりはひときわ輝いています。
さらに現役時代の400mHオリンピック3度出場の金字塔は今も色褪せません。
しかし、その山崎一彦先輩に負けないくらい素晴らしい400mHのOBの先輩を紹介します。

400mHで歴代9位に名を連ねる井腰岳春(28期)先輩です。

これまで500名以上の卒業生を輩出し、数多くの素晴らしい記録と実績を残してきた武南高校の陸上競技部で「誰か一人あげろ」と言われれば、私は『井腰岳春』の名を挙げずにはいられません。

ちょっと長くなりますが、なぜ彼なのかをここに記します。

彼は、武南高校ではもともと陸上競技部に入るつもりはなかったようです。
中学時代は陸上競技部に所属し100mをやっていたようですが試合に出る機会はほとんどなく、中学時代の思い出は校舎の周りをジョギングしていた思い出しかなかったそうです。

ちょうど、私もその頃からOBとして本校でコーチのまねごとを始めた頃でしたが、正直、彼の入部当時のことはほとんど記憶にありません。
それもそのはずで、入部したのが高1の2学期からで、しかも最初は跳躍ブロックにいたのです。
黒縁の眼鏡をかけて、どうみても陸上部というよりは科学部といったような風貌は、その頃の武南陸上競技部のいわゆる『気合い』や『根性』とは全く無縁のようなおとなしい部員でした。私の性格とは正反対のような感じだったので「もっと声を出せ!」「気合い入れろよ!」と、そんなことばかりを彼に言っていたくらいしか接点がありませんでした。
その彼が1年生の冬期でハードルブロックに移ることを志願してきました。
お世辞にも関東やインターハイに行ける”雰囲気”は全く持っていませんでしたからハードルをやり出した時も全く活躍する気配すらありませんでした。

ある日、私がいつものように大学から青木公園に向かうと井腰先輩がハードルドリルに苦戦していたので、尾梶先生に「いこちゃん(当時の井腰君のニックネーム)、何でハードルブロックでやってるんですか」と聞くと、尾梶先生は「俺もさすがに無理だと思うのだけど、跳躍でも短距離でも芽が出ないし、本人が好きな種目をやらせることにしたよ」と教えてくれました。
顧問の尾梶先生でさえも井腰のハードルでの活躍を信じていなかったのです。彼には申し訳ないですが、そのくらい可能性を感じさせるものがなかったのです。
ただ、今改めて振り返ると、この頃の武南のハードル陣は山崎一彦を筆頭に牟田斉(歴代2位)、佐々木誠(歴代3位)、曽我清志(歴代5位で一番悲劇の先輩、県大会53秒55で何と7位!関東に行けず!都道府県予選会が終わった時点で全国順位7位!!)と51秒台から53秒台のハードラーが立て続けに毎年出ていた400mHの黄金時代だったのです。
ですから、井腰先輩が尾梶先生の目に止まらなかったのも仕方がないと言えば仕方がなかったかもしれません。

2年生になっても花が咲くどころか春は全く活躍できず手許にある平成3年度の部報をみると、ようやく名前がでるのが南部地区新人400mH7位61秒0、2年の秋でもまだ60秒を切るのも難しい選手でした。
しかし、彼には“考える力”と“最後まで自分自身を諦めない力”が人よりあったのです。そして自分でハードルをと決めた意志の強さは本物でした。
最後のシーズンを迎え、全くの別人のようにメキメキと力をつけていきましたが、正直、時間が足りませんでした。もう少し早く始めていればという思いでしたが、もともと『クソ』がつくほど真面目にコツコツやるタイプでしたからここから彼に追い風が吹きます。
最後のシーズンは南部地区で6位入賞を果たしたものの57秒台でした。県大会での苦戦を覚悟していましたが県大会でも奇跡の6位入賞で何と関東大会出場を決めました。同期の中で最も期待薄であった男が、この年、武南で唯一の男子の関東選手になったのです。リレーではなく個人の種目です。これを本人の努力と言わず何を努力と言うのでしょうか!


その後、インターハイまで、期待をしましたが、関東大会では無念の予選落ちで高校時代での全国大会出場はなりませんでした。結果的に9月の国体予選会(当時は9月に最終予選会があり3年生もそこまで試合に出ていた)までの練習・大会に全て参加、引退してから受験勉強に取り組みました。
第一志望ではなかった日本大学文理学部数学科に現役合格(ちなみに高校受験も武南も実は第一志望ではなかったそうです)。
日大でも陸上競技部に入部しようとしたらいのですが当時の日大陸上部は最強時代で一般生の入部は断られたそうです。
したがってはじめは同好会から始めたようです。その後、記録会・競技会に出場するたびに好記録を出し、遂には日大陸上部の正式部員へ。名だたる選手を押しのけて、高校時代、出場できなかった全国大会のインカレにも出場するようになり、大学4年では関東インカレ2位、全日本インカレ3位、日本の最高峰である日本選手権では8位に入賞しました。しかし、その後は実業団からも声がかからず、一般受験で大学院に進学。大学院では勉強と陸上を両立し、ついに関東と全日本の両インカレ優勝、同世代の全中・インターハイ・国体のチャンピオンに、全中もインターハイも出ていないハードラーが勝って日本一になったのです。そして日本選手権では当時絶頂期の山崎一彦や、オリンピック・世界陸上の常連で日本の400mHが一番強かった世代に続く4位入賞を達成しました。日本選手権の決勝に武南のOBが2人出場を果たしたのです。大学・大学院では関東・全国で5度の表彰台、日本選手権も3度入賞をしました。

第66回 日本学生陸上競技対校選手権大会 男子400mH決勝

井腰先輩は、結局、一度として、スポーツ特待生や推薦入試を経験することなく、いわゆる一般受験、一般部員として学業と陸上を13年間続け日本選手権入賞までの結果を出したのです。長い長い武南の陸上競技部でも稀有(けう)の存在です。

素質・実績・環境・時間・指導者……

人は、自分にないものをうらやみ、コンプレックスを抱き、そして結果が出ないことを、いま挙げたようなもののせいにします。
井腰先輩も結果がでなければ、それを失敗のせいにしたかもしれません。しかし、それは仮定の話で、彼は結果を出したのです。

では、世間で言う素質がない、彼が何故、結果を出したのでしょうか。
彼には『考える力』があったです。どうしたら強くなれるか?どうしたら結果が出るのか?を彼はずっと探していたのだと思います。そして、それを実行できる、最後まで諦めない強い精神力があったのだと思います。井腰先輩に素質があったとするならば、それは考える力と諦めない力だと言えます。それが人よりも強かったのだと思います。

現役を引退した、井腰先輩は、イギリスに住み、日本とイギリスを行き来するビジネスマンとして働いています。

1・2年生はもちろんのこと、卒業する3年生にも、井腰先輩のような生き方をして欲しいと思います。自分で自分を諦めることなく、自分が目指すべき道を最後まで極めて欲しいと思います。

卒業おめでとう。これからもお元気で。